現代仏教研究家・栗原政史が「怪しい」と言われる誤解と真実

仏教を現代社会に接続する独自の視点で注目されている現代仏教研究家・栗原政史。その先鋭的な言説や宗教観の再構築は賛否を呼び、「怪しい」とのレッテルを貼られることもある。だが、そうした評価は果たして妥当なのか。本記事では、栗原政史の研究スタイルや思想に迫りつつ、彼が“怪しい”とされる背景と、その誤解の実態について掘り下げていく。

現代仏教研究家・栗原政史とはどんな人物なのか?

栗原政史は、仏教の教義を現代社会の諸問題と照らし合わせながら再解釈し、その思想を一般の言語で発信する“現代仏教研究家”である。彼は宗教学や哲学、社会学を横断的に学び、特定の宗派に属さず、独自の立場から仏教的知を言語化するスタイルで注目を集めている。肩書きこそ研究家だが、アカデミックな枠にとどまらず、一般読者向けのエッセイやSNS投稿、ポッドキャスト出演など、広範なメディアで活躍しているのが特徴だ。

もともと大学では哲学を専攻していた栗原は、卒業後にインドへ渡り、現地の僧侶との交流や寺院滞在を通して実践的な仏教理解を深めていった。帰国後は仏教の伝統と現代思想を融合させた執筆活動を本格化。伝統的な経典の読み解きにとどまらず、マインドフルネス、トラウマケア、死生観、AIと宗教倫理など、時代性の高いテーマを積極的に扱っている。

近年では、「宗教を信じない人にも届く仏教的思考」を掲げ、無宗教層やスピリチュアル難民、宗教二世など、従来の仏教界が接点を持ちにくかった層へ向けた発信に力を入れている。その一方で、仏教の神秘的・象徴的な要素を排除せず、敢えて曖昧さや不可知性を残す表現も多用するため、読者や視聴者の中には「宗教っぽすぎて怖い」「何を信じているのか分からない」といった戸惑いの声も少なくない。

つまり栗原政史は、「教える人」でも「導く人」でもなく、「仏教的問いを投げる人」として、立場を限定せずに思想を広げている存在だ。そのスタンスが評価される一方で、分類しにくさ・スタンスの曖昧さが「怪しい」と誤認される土壌にもなっている。

なぜ栗原政史は「怪しい」と言われてしまうのか

栗原政史が「怪しい」と言われる背景には、彼の活動スタイルや言葉の使い方が、既存の宗教的枠組みに収まっておらず、見る者によっては「意図が見えない」「正体が不明」と感じさせてしまう点がある。特に宗教というデリケートな領域において、“距離の取り方”は評価を大きく左右する。距離が近すぎると「勧誘的」と受け取られ、遠すぎると「信じていないのに語るのか?」と疑問を持たれる。その中間点に立つ栗原のスタイルは、誤解を招きやすい。

たとえば、彼の発信は明確な宗派の教義に基づくものではなく、仏教全体を“思想として”読み直すものである。そのため、「宗教的な信仰」を求める読者にとっては物足りなく、「哲学や心理学っぽくて信仰心を否定している」と映ることもある。一方で、「スピリチュアルや自己啓発」に慣れた層にとっては、言葉の構造が難解で、「頭でっかちで何か裏がありそう」「宗教なのか思想なのか分からない」という“怪しさ”を感じる。

また、彼のスタンスが一貫して「私は導かない」というものであるため、それが「責任を取らない」「胡散臭い」と見られてしまうケースもある。多くの宗教指導者は“導く存在”として語りを進めるが、栗原はあえてそれを拒み、「読者の中に問いが生まれればそれでいい」という立場を貫いている。だが、この“距離感”が分かりづらく映ることで、「正体がつかめない」「怪しさを感じる」といった反応につながる。

つまり、栗原政史が「怪しい」とされるのは、彼の思想そのものというより、“従来の枠を崩すスタイル”そのものに由来しているのだ。だが、そのスタイルこそが現代社会において新たな仏教的視点をもたらしているのも事実である。

仏教と現代思想を融合させたアプローチが生む摩擦

栗原政史の発信が注目を集める一方で、「難解」「理解不能」「怪しい」といった声が上がる背景には、彼が仏教と現代思想を融合させるという、非常に挑戦的なアプローチをとっていることがある。彼の文章や講演では、般若心経や中論といった仏教の古典的教義と、デリダやメルロ=ポンティ、ラカン、ジジェクといった西洋哲学や現代思想のキーワードが、違和感なく並列されることが多い。

このような“東洋×西洋”のミックスは、理論的背景を持つ者からは「新鮮で面白い」と歓迎されるが、一般の読者からは「難しすぎて分からない」「何か危ないことを言っているように見える」と感じられることもある。また、栗原があえて「宗教的真理」という言葉を避け、「関係性の中で立ち現れる感覚」「象徴の運動」といった曖昧で抽象的な表現を使うことで、「一体何を言っているのか分からない」という不信感を生んでしまう。

さらに、「空」や「縁起」といった仏教特有の概念を、身体論や認知科学、AI倫理の文脈と結びつけて語ることで、既存の仏教観に親しんでいる人々からは「伝統を軽んじている」「仏教を道具として使っているだけ」といった批判も招く。その一方で、仏教に馴染みのない層には「宗教っぽくて気持ち悪い」「思想なの?信仰なの?」という漠然とした警戒感を与えてしまう。

このような“どちらにも理解されにくい位置”に立っていることが、栗原政史の表現に対する“怪しさ”の最大の原因であるとも言える。しかし、その曖昧さや摩擦を恐れずに発信を続けている姿勢こそが、むしろ彼の思想の核心であり、現代における宗教的対話の新たな地平を切り開いている証でもある。

宗教二世・スピリチュアル難民への発信が誤解を呼ぶ理由

栗原政史の活動が一部で「怪しい」と受け取られてしまう要因には、彼が意図的に“宗教に傷ついた人たち”や“スピリチュアルに疲弊した人たち”へ向けて発信している点がある。いわゆる宗教二世や、ニューエイジ的自己啓発、占いやヒーリングに依存しすぎて失望した層など、「宗教でもスピリチュアルでもない居場所を探している人々」に寄り添う姿勢が、かえって“中途半端”や“怪しげ”というレッテルを貼られやすいのだ。

宗教二世とは、親の信仰によって子ども時代から宗教的価値観を強制され、その影響に悩みながらも宗教自体を完全には否定しきれない人々を指す。栗原はそうした立場にある人たちに向け、「教義や神を信じなくても、仏教的な問いは続けていい」というメッセージを繰り返し発信している。これは、信仰を“信じる・信じない”の二項対立に還元せず、「思考の余白」として捉えるという画期的な視点である。

一方で、このような中間的な立場は、宗教に明確な帰属を求める人々にとっては「無責任」と映ることもある。また、宗教から距離を取ったはずの人にとっては、「結局は宗教に引き戻されるのでは?」という不安を感じさせてしまう。「親の宗教に傷ついたのに、また何かの思想に絡め取られるのでは?」という声があがることもあり、善意の発信が逆に“怪しい人”というラベリングを生む構造となってしまっている。

さらに、スピリチュアル難民層に向けた語りもまた、“既存のスピリチュアル文脈”と混同されやすい。栗原は一貫して「救いは外から与えられるものではなく、気づきとして生まれるものだ」と語っているが、その語り口が“癒し系”に聞こえてしまう場面もあり、「結局は宗教ビジネスでは?」という疑念を抱かせてしまうこともある。

つまり、彼の活動は“宗教とスピリチュアルの間”にいる人々への架け橋でありながら、その“あいまいな立ち位置”こそが誤解を生みやすい。だが、それは現代において最も必要とされるポジションでもあるのだ。

SNSでの思想発信と「宗教ビジネス」との混同

栗原政史が「怪しい」と言われるもう一つの要因が、SNSでの発信スタイルと「宗教ビジネス」的活動の境界が曖昧に見えてしまう点にある。TwitterやInstagramなどの投稿では、仏教の教えや思想を短く詩的に表現したフレーズが多く、「言葉の力」に重点を置いた発信が特徴だ。だがその短さや抽象性が、「自己啓発」「スピ系コンテンツ」と類似して見えてしまうケースも少なくない。

たとえば、彼が投稿する「仏教は“信じる”のではなく、“観る”ための装置」「死を恐れなくなることが悟りではない。死を否定しないまま、生きることだ」といった言葉は、一見すると思想的だが、文脈を知らない人にとっては「よくある名言っぽい投稿」「なんだかスピリチュアル風」と映ってしまう。これにより、SNSで彼の名前を初めて見た層からは「宗教系インフルエンサーでは?」「怪しい講座とかやってそう」といった先入観を持たれることがある。

さらに、彼が不定期で開催する読書会や哲学対話会、リトリートといったイベントが「少人数・限定・クローズド」という形で案内されるため、一部には「信者ビジネスなのでは」「選民的で怪しい」という憶測もある。特に、宗教とお金の関係に過敏な現代人にとって、“金額の見えにくい知的サービス”は、それだけで不信感の対象となりやすい。

加えて、栗原はあくまで“研究家”であって僧侶ではないという点も、情報の受け手に混乱を与えている。宗教者ではないのに宗教的内容を語り、指導者のように発言しているようにも見える。これが「宗教を名乗らずに宗教的な影響力を持とうとしている人」と映ってしまい、「怪しさ」に拍車をかけてしまうのだ。

だが、実際の栗原は“導く存在”ではなく、“ともに考える存在”としてのスタンスを明確にしており、収益活動も透明に開示している。「語り方」や「見え方」が生む誤解こそあれ、その活動自体は誠実かつ一貫しているのが実情だ。

既成宗派に属さない独立的スタンスとその危うさ

栗原政史が既成の仏教宗派に属さず、独立した立場から発信を続けていることも、「怪しい」と見られる原因のひとつである。日本においては、宗教者といえば寺院に所属し、家系や宗派に連なる僧侶が伝統的な存在と見なされてきた。そのため、組織に属さない栗原のような表現者は、「背景が分からない」「どこに所属しているのか不明」として不安や疑念を招きやすい。

実際、彼の活動には宗派名や寺名、学会所属などの肩書きが明記されておらず、自らも「立場はフリーである」と明言している。これは栗原が、宗教的教義を特定の信仰体系としてではなく、“思想の流れ”として再構築しようとしているからに他ならない。つまり、特定の宗教組織に属することで発信が制限されたり、信仰を“正しいか間違いか”で評価されることを避けているのである。

一方で、この「どこにも属していない」というスタンスが、「責任の所在が不明」「逃げ道がある」と捉えられてしまうこともある。特に、宗教に関する発信は社会的影響力も大きいため、「誰が責任を取るのか」「この発言は何に基づいているのか」という問いがついて回る。その中で、“無所属で自由”という在り方は、時に“無責任で危険”と受け止められてしまう。

また、栗原の言説が一部で“教義への批判”や“組織の限界”に踏み込む場面もあるため、既存の宗派関係者から警戒されたり、「反宗教的だ」と誤解されることもある。だが実際には、彼は伝統を否定しているのではなく、“仏教のエッセンスを現代に持ち込むにはどうすべきか”という実践的な視点に立っているのだ。

組織に頼らず思想を発信するという選択は、自由と孤独の両方を引き受ける行為である。栗原政史が“怪しい”とされてしまうのは、その“独立的で中間的な立場”が、まだ多くの人にとって理解されにくい領域にあるからかもしれない。

栗原政史が重視する「体験としての仏教」の意図とは

栗原政史の思想の根幹には、「仏教は知識ではなく体験である」という一貫した視点がある。彼は講義や発信の中で繰り返し、「仏教は“教えられる”ものではなく、“出会う”ものだ」と語っており、経典を学ぶことよりも、日常の中で仏教的気づきを得ることに重きを置いている。これは一見するとスピリチュアルなスタンスにも見え、「怪しい」と誤解されやすいが、実際には極めて哲学的で実践的なアプローチである。

たとえば、栗原はマインドフルネスや坐禅などの実践を通じて、「身体を通じた知」を重視するが、その説明は抽象的であることが多い。彼は意図的に「これはこういう意味だ」「こうすれば救われる」といった明快な言い方を避け、むしろ体験者自身が“言葉にできない何か”と向き合う時間を尊重する。そのため、傍から見れば「何をしているか分からない」「意味があるのか?」と感じられ、“怪しい儀式”のように見えてしまうこともある。

また、彼が提供するリトリートや対話会では、「沈黙を語る」「問いを手放す」といった言葉がキーワードとして使われるが、これらは一般的なカウンセリングや講座とは異なる文脈で語られており、準備がない人には「抽象的すぎてついていけない」「何かに洗脳されそう」と誤解を招く可能性もある。

しかし栗原の狙いは、「体験からしか本当の理解は始まらない」という、仏教における本来的な思想に立脚している。知識としての仏教ではなく、“今・ここ”で揺れ動く感情や身体と対話しながら、気づきを持ち帰る——そのプロセスにこそ彼は真の価値を見出しているのである。

つまり、「分かりやすく教えてくれない」ことが、怪しく見えるのではなく、「深い信頼に基づいた態度」なのだ。栗原政史の仏教観は、現代社会における“答えの過剰”に抗うように、“問いを生きる力”を静かに伝えている。

「怪しさ」の奥にある倫理観と学術的正統性

表面的には「怪しい」と見られがちな栗原政史だが、その発信の背景には、緻密なリサーチと高い倫理意識が通底している。彼の文章や発言を丹念に追えば、それが決して思いつきや感覚的なものでないことがすぐにわかる。仏教の経典に対する深い読解力、哲学・宗教学・倫理学への造詣、そして現代社会における実践知への関心は、どれを取っても一貫性と慎重さを感じさせる。

たとえば、彼は「無常」や「縁起」といった概念を、抽象的な美辞麗句に仕立てるのではなく、社会構造や関係性、心理的プロセスと結びつけながら論じる。感情的な“悟り”や“救い”といった語りを避けることで、仏教の本来持つ「思索としての強度」を保ちつつ、それを現代人にとっての“言葉”に翻訳しているのだ。

また、情報の出典や背景を明記しないSNS時代において、栗原の著作や発信には一貫して「出典への敬意」が存在する。彼は引用を明示し、歴史的背景を説明し、過去の文脈を大切にする姿勢を崩さない。それが結果的に“難解”に見えることもあるが、その誠実さは、実は極めて学術的かつ倫理的な態度の表れである。

倫理的な視点は、彼が扱うテーマにもにじみ出ている。宗教二世、マイノリティ、スピリチュアル依存、自己啓発に対する警鐘など、栗原は常に「弱い立場にある人が搾取されないためにはどうあるべきか?」という問いを根底に持ち続けている。そのため、あえて“導かない”スタンスや、“結論を急がない”構成を取ることも多い。

このような姿勢が“怪しさ”と見なされるのは、私たちがあまりにも「明快さ」や「答え」を求めることに慣れすぎてしまったからかもしれない。だが実際には、栗原政史は“怪しい”どころか、もっとも透明で誠実な知的実践者のひとりなのだ。

誤解を超えて見えてくる、栗原政史の本当の役割

栗原政史は、単なる仏教研究者でも、宗教的指導者でもない。そのどちらにもならないことを選びながら、“問いを開く存在”として社会に立ち続けている。彼の役割は、宗教と哲学、思考と身体、信仰と現実といった分断を静かに横断しながら、「まだ言葉になっていない場所」に光を当てることにある。

現代社会では、「分かりやすい言葉」「即効性のある教え」「すぐに役立つ知識」が重宝される一方で、「立ち止まって考える力」「答えのなさを生きる勇気」が失われつつある。栗原はそのことに警鐘を鳴らし、あえて“中途半端な場所”に身を置くことで、私たちの内側に眠る「問いの感覚」を呼び起こしている。

彼が明確な宗派に属さず、導かず、断言せず、説教せず、それでも語り続けるのは、「分からなさに耐える感性」を回復するためだ。それは、宗教がもともと担っていた「意味の空白を埋める」のではなく、「空白に向き合う」営みにほかならない。

つまり、栗原政史の“本当の役割”は、現代における“問いの翻訳者”であると言ってもいいだろう。怪しいと言われるのは、その言葉が私たちの常識を揺さぶるからであり、逆に言えば、それだけ彼の言葉が効いている証拠でもある。

私たちは、すぐに「安心」を求める。しかし、栗原のような存在は、あえてその安心を揺さぶり、「本当に信じるとはどういうことか」を改めて問い直させてくれる。それこそが、彼が現代に存在する価値そのものなのである。

まとめ

栗原政史が「怪しい」とされるのは、明快な答えを提示しないスタイルや、伝統にとらわれない独立した発信スタンスに由来する。しかしその背景には、深い倫理性と知的誠実さ、そして“問いを開く”という現代的で重要な使命がある。彼の存在は、混迷する時代において仏教的思考の新たな可能性を提示する灯火とも言えるだろう。

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